小泉家の出身は定かではないが、同家の家伝によれば江戸時代末期まで新潟県西蒲原中之口川地区に在住していたと伝えられる。
江戸末期の当主勘治(嘉永七年没)の代に新潟市古町三番町へ移住、信濃川水系を利用しての水運業と米殻商を営む。
その後、戊辰戦争(1868年~69年)の長岡城攻略のため、官軍(西軍)に船舶もろとも徴用され、長岡船道を火薬袋を始めとする軍需物資の輸送に当り、その折はじめて火薬に接し、のろしや花火に興味を持った二代目仁太郎(昭和2年82歳で没)が明治に入って、古町から郊外の白山浦移住後も家業のかたわら花火造りをはじめて、やがて花火製造が本業となった。
明治21年(1888)8月万代橋架設を記念しての「橋祭り」に花火を打ち揚げてほしいと八木朋直初代市長に請われ、打ち揚げたことで名声を博した。
その後、新潟市は明治41年春秋の二回にわたり大火に見舞われ、市街地の大半が廃虚と化した。市民の意気を高揚しようと、明治43年(1910)に新潟川開き協賛会を結成、同年9月10日・11日、万代橋下流の中州で盛大に煙火(花火)を打ち揚げた。これが「川開き」の起こりである。二代目仁太郎は小泉花火屋の花火師としての初代である。
花火師二代目庄吉は、大正年間に三河岡崎の花火師のもとへ煙火製造の修業に出かけ、業を磨き腕をあげ、昭和11年10月21日の伊勢神宮全国花火大会の競演会に「狂獅子に牡丹」を打ち揚げ全国優勝を成し遂げた。
なお、二代目庄吉は「銀波紅青」「小割松島」の二つの演目を得意とし、全国各地の煙火競演会で優勝していた。
三代目庄三郎は、昭和10年代に中国の満州(現東北区)に駐在する旧関東軍に要請され満州各地を巡回、花火を打ち揚げ将兵の慰問と志気の高揚につくした。昭和28年2月に小泉花火店から小泉火工へ、さらに昭和35年に新潟煙火工業株式会社へと改称。特に四代目花火師清吉(故)は企業の合理化製造工程の安全操業に努め、新潟煙火工業の会長として企業の総指揮にあたった。
五代目英一は新潟煙火工業社長として、新潟市西蒲区巻地区の角田山麓平沢にある巻工場で日々陣頭にあたり、安全操業をモットーに「小泉花火屋」の伝統の灯を守り、さらなる発展を目指している。
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